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淀川と大塚切れ(大塚町3丁目)

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(2013:04:13 14:09:34, NIKON D800, F8.0, 1/640, 0, ISO:100, 40 mm, AF-S Nikkor 24-70mm f/2.8G, 撮影地)

淀川と大塚切れ(大塚町3丁目)

淀川は古くから「母なる河」として親しまれ、政治、経済、文化などの発展に重要な役割をになってきた。その流れは瀬田川から宇治川を経て大阪湾にいたる73.1kmに及ぶ。
古代の淀川は上流の木津川とともに、大和王権の重要な外交ルートを担ってきた。また近世以降は、重要な水上交通路として多くの川舟がいきかい、三十石船の船頭衆による朗々とした舟唄は、両岸の風景を見事に唄い上げ、旅人はおおいに旅情をなぐさめられたという。
この舟唄は三十石船が姿を消した明治時代以降も唄いつがれ昭和60年に市の、平成14年に大阪府の無形民俗文化財に指定され、保護団体の大塚保存会が、その唄声を今に伝えている。
淀川の近代的な修築工事は、明治7年(1874年)、オランダ人技師デレーケらの指導によって改修計画が策定され、翌年から着工したことにはじまる。
しかし大正6年(1917年)10月1日朝、連日の暴風雨で増水していた淀川が突如決壊。濁水は大冠地域一帯を水没させ、JR以南の多くの町並みも軒下まで浸水した。被害は大阪府下で死者・行方不明者・負傷者22人、浸水家屋等1万5500戸にのぼり、この水害を当地では「大塚切れ」と呼んでいる。
その後、堤防の改修工事が進んだ結果、淀川本流の破堤はなくなり、昭和5年(1930年)、水との戦いを伝える記録として洪水記念碑が建てられた。

平成20年3月
高槻市教育委員会





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