名勝 交野が原 讃歌

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(2018:03:30 08:51:30, SONY α7R II, F8.0, 1/125, ISO:125, 46mm, 24-70mm F2.8(SEL2470GM), 撮影地, 潮位)

名勝 交野が原 讃歌

北は楠葉から、南は天の川に至るこの一帯の地域は、古来「交野が原」と呼ばれて、七夕伝説とともに、わが国では著名な史跡名勝の地でした。
奈良から平安の初期に至る間、我が交野が原が世にもてはやされたのは、かの清少納言がその随筆枕草子で「野はかたの」と褒めたたえたように、あるいは太平記の著者が「落花の雪にふみまよう、交野の春の桜狩り」と語った如く、桜花に象徴された自然の美しさでした。
また、緑深い野は絶好の遊猟の地であったこと、さらに壮大華麗な百済大寺が中宮の地に建立され、大陸文化の摂取に燃えた都の貴族たちの夢を駆り立てたことも大きな原因であったと思われます。
そのためか、桓武天皇の交野が原行幸は実に十数回にも及んだと伝えられているし、また嵯峨天皇の皇后(檀林皇后)が、当地の豪族田口氏の娘であったことも、時の朝廷と交野が原との深い関係を思われてなりません。
伊勢物語によると、春4月、渚の院を出発された惟喬親王の一行は勇壮な鷹狩りを試みられ、帰途、天の川原に立ち寄られました。そのときお供の歌人在原業平が、親王の求めに応じて、次の如く歌を詠まれました。

狩りの暮らし たなばた津女に 宿からん 天の川原に 我は来にけり
在原業平

交野が原の盛況は、鎌倉期には既にその姿を消したかと思われますが、文人や歌人の愛惜の情は、時代を経ても衰えず、中世はもとより、近世の江戸期、いや現在にまで続いていることに、驚かざるを得ません。
最後に、昔、今の2人の歌人の歌をご紹介します。

あくがれし 天の川原と 聞くからに 昔の波の 袖にかかれる
西行法師

わびつつも 狩りにみ歌に うつせみの 心よせけん 惟喬親王
今中楓渓

平成15年春
社明宮之阪創始者 雲川正秋 記





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