六角塔

|   
(2011:06:24 15:29:20, NIKON D300, F8.0, 1/60, 0, ISO:500, 16 mm(換算24 mm), 16.0-85 mm f/3.5-5.6, 撮影地, 潮位)
カテゴリ: 201106東日本大震災  

六角塔

昭和56年9月1日
山田町指定文化財

 宝暦5年は、かつてない冷害であった。鞭牛は橋野村の林宗六世住職を引退、船越半島の突端、秀全修行の地大網に赴き宇宙の諸仏に天候回復を願った。その後山田の作造鼻で、餓死者が横たわっている地獄の惨状を見、遺体を埋葬供養し、9月大沢袴田の地に「南無阿弥陀仏碑」を建立。さらに10月荒川の奥、穴乳洞窟に、「母子観音像碑」を建立した。この年は、南部領内だけで6万人に及ぶ餓死者が出る事態となった。
 宝暦6年1月には、長沢(宮古市)の修行洞窟において千歌を完成、

読みおくぞ かたみとなれや 歌ごころ
 われはいづくの 土となるらん

と結び、道開削の決意をあらわした。
 この頃鞭牛は長沢の13仏霊場を再興、御仏像を建立し、ここでも餓死者供養を行っている。
 宝暦8年3月から、腹帯の難所の開削をはじめ、次々と閉伊街道の難所の開削を手がけた。
 宝暦12年、閉伊街道開削完成の一区切りとして、ここ袴田に記念すべき道橋普請供養塔を建立した。これが六角塔である。この地はかつて餓死者を供養した地であり、道開削に生涯をかける決意をした意味深い地である。また山田地方には鞭牛を崇拝する多くの人々がいて、その活動を支援した。
 その後も鞭牛は織笠、船越など浜街道の難所を開削、天明元年2月には吉里吉里において道の改修を師の大到見牛と行った。そして翌年9月、橋野村において73歳で往生された。
 鞭牛は、南部藩が生んだ史上最大の道開削者であり、その功績から、陸奥の聖僧と言われている。

平成15年3月25日
山田町教育委員会





前の画像次の画像

ランダム画像


アクセス順位

  

  • 購読


  • jpcoastcom2@gmail.com